年賀状書き切った。
クリスマス前!余裕で間に合う(多分)!
一時はどうなるかと思った・・・インクジェット紙手に入らなかったし。
良かった。
後は大掃除(泣)。
「生きるヒント4-本当の自分を探すための12章-」(五木寛之/角川文庫)読んだ。
うーん。
「昔は良かった」「今の若者は〜」な事言うイヤーなおじい化されてませんか。
爺ィの愚痴的な。
「3」迄はあんまりそう感じさせなかったように思う。
愚痴でも時代に合わないなりに「こうありたい、こう考えよう」だったような。
「3」と「4」の出る間の一年間に何があったんだろうな、という位。
だから此処で読むの止めちゃったのかねぇ、過去の自分。
下手こいたら反ワクみたいになっちゃってるんだろうか・・・。
「3」迄は科学や医療を過信しないにしても、そういう危うさは無かったような気がする。
「泣ける」が売り言葉として喧伝される時代を五木さんはどう御覧になってるんだろう。
映画でも本でも「泣ける」という宣伝は多い。「笑える」「怒れる」より多そうだ。
「ことばに表現できない深い人間的な思いを相手に伝えるコミュニケーションの洗練された文化ともいえる『泣くこと』」(p.196)とは逆の。
実際に心が動いて泣く人はそういう洗練された文化なコミュニケーション、気持ちの吐き出し方をしている。
だけど其れ以上に安っぽい「泣ける」が溢れてる、「泣ける」って言やあいい、宣伝になる、みたいな。
自分から見たら「真に人間的な泣き方」について滔滔と語られるのも、「泣ける」を売りにぐいぐい宣伝するのも同じだ。
泣き方を強制されてるみたいで。
嬉しい事も悲しい事も、弱音も其れ以外も、コミュニケーションが洗練されてるかも深さも関係なく、難しく捏ね繰り回さない、気持ちが言葉を越えて溢れてきたら泣く。
其れでええやん。
「潤い」は大切だと思いますがね。
贈り物だって義務は厭だけど、かと言って「あなたの事を気にかけて贈ります」が明後日の方向だったら義務と変わらない。
此れまた押し付けやんね。
そんな感じで眉間にぎゅうぎゅう皺寄せ乍ら、もやもやと読んだ。
”押し付け”じゃない、押し付けるにしてももっとさり気ない、其れこそ”洗練された”やり方なのが良かったんだけどな・・・ほんと、何があったんだろう。