社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

たゆたう

朝、信号待ちしてたら隣に観光バスが停まった。
小学生の遠足だろうか。
令和の小学生も外歩いてる人に手を振るんやね。
昭和の小学生だったから気持ちは解る、思いっきり手ェ振ったった。
あー楽しかった。

「たゆたう」(長濱ねる/角川文庫)読んだ。

ダ・ヴィンチ」連載してたエッセイの書籍化。
ふわあっとした一見普通なようでするっと深みに引き込むような、凄く”読ませる”文章が割と好きだったんで、文庫化したら纏めて読もうと思っていた。
欅坂46のファンでも無く詳しくもない自分でも名前は知ってるレベルのアイドルやってて、今でも大悟と山羊連れて歩いてるのがゴールデンタイムに観られるような人でも、ちゃんとオフがあって、友達とご飯食べに行ったり骨気受けたり、ふつーのそのへんの人みたいに暮らせてるんだ、と安心する。
マッサージが痛過ぎて苛立っちゃうけど施術してくれた人の優しさに触れて「どんな時も人に優しくありたい」と思う、不機嫌な時や”思い出し癇癪”しちゃった時に理性を意識して「理性が利いていない時に人を傷つけることができてしまいそう」と怖くなる、ああ人間らしいのだ此の人も。
ただそういう時に「優しくありたい」で止まらずに「優しい自分でいられる場所や人の中で、生きていたい」と思える位には人が好いのでは、良い意味で。
友達のエピソードが出てくるけど、その友達は自分にとってどういう存在か、そして自分も友達にとってそういう存在でありたい、と思えるのも。
理性云々について話が出来る人が身近にいる、辛い時に救いとなる人や言葉に出会える、其の事に気づける、というのは此の人の才能なんだろうな。

人に”無理せず””できる範囲で”という言葉を使っていると「たまには精一杯頑張ろう、挑戦してみようって言葉も大切にして欲しい」とメッセージが来る話、欅坂やってた人らしいな、と思った。
欅坂って今は櫻坂でちょっと雰囲気変わったけど、自分達自身でも運営・プロデュース側からも必要以上に”追い込んでる”ような印象があった。
ハードな歌詞で激しいダンス、其れが彼女達の魅力なんだとしても、紅白や普段の歌番組で観ていて痛痛しく感じていた。
そりゃあ精神的に疲弊しちゃうよなぁ・・・。
そういう環境で活動してた人は、今でもそういう行動を求められるのか、と。
”無理せず””できる範囲で”と言っても、”精一杯じゃない””頑張ってない”とは同じではないもんな。
全力でやってても観てる人には「全力じゃないですよ、無理しないでね」って思わせる事だってあるだろうし。

どうでもいいニュース:
こないだサウナで“ととのう”体験出来なかったけど、”ととの”わなくて良かったのかも(汗)