社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

カム・ギャザー・ラウンド・ピープル

Wアンコールありそう、でもあれだけのアツいライブを全力でやってくれはったのに「もっと演れ」も酷だよなぁ・・・
と思って帰ると、だいたいWアンコールやってはる。
ナムサン!

「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」(高山羽根子集英社文庫)読んだ。

此の作品も単行本の表紙良いな。思い出を語りながら、ある大雨の日に雨宿りで入ったお店でイズミという映像作家に出会う。
彼女の撮った動画に映っていたのは、同級生。

直接、言葉で明示しない。
でも何かが伝わってくる。
どうとでも解釈出来る。
描かれるものは凄まじく自由だ。
ただ、他の人はどう解釈したんだろうな?と検索した中にあった、分かりやすく「こんなあらすじでしたねーいかがでしたかー」って書いてたやつはは全然違っていたと思う。
あと帯にある「そこにある痛みの痕跡を誰かが記録しておくことの重要性を、この作品は描き出している」っていうのも、どうなんだろうな。
「お腹なめおやじ」に腹をなめられた事を言い出せなかった事、学生寮の学生にされた事、ニシダとの間にあった事・・・。
「なんの問題もないんだけれど」って言うけれど、問題なくなかったから、こうなったんじゃないか。
「謝ってすっきりされるために追い掛けられる、こっちの身にもなってみろ」って言う事で、此の文章で書かれる事で初めて「なんの問題もないんだけど」になったのかな、と思った。
書かれ、読まれる事で定義され、認識される。
物語としては其れで良い、ただ解説で「痛みの痕跡を誰かが記録しておくことの重要性」って定義しちゃうと、其の事を突き付けられた”私”的にはどうなんだろうな。
”私”はそうして欲しかったんだろうか。

何を考えて此処に収録されている4つのの物語が生まれたのだろう、と思いながら読んでいた。
其の時々にあった出来事、ニュースに触れて、高山さんの中で熟成されて生まれた物語なんだろうか。
物語として面白いだけじゃなく、「其の時代への問題意識」というモノを感じるので。