自分が書いて流してる本の感想エントリについて「レビュー」と呼ばれると穴掘って潜り込みたくなる。恥ずかピー。
そんなちゃんとした文章じゃないもので、「こんな本読んでな、こんなん思ったんやんかー」って言いたいだけなのである。
「おらおらでひとりいぐも」(若竹千佐子/河出文庫)読んだ。
映画用の帯が此の写真なんだけど、こちらだとなんとなくほのぼのホームドラマっぽい。元の表紙はきりっとしてる。小説は其のどちらの要素もあるので面白い。
数年前に最愛の旦那さんを亡くし、昨年一緒に住んだ老犬を亡くし、息子とも娘とも疎遠になった桃子さんの日々の暮らし。
京極先生の「オジいサン」を一瞬思い出した、あっちの方が“枯れ”てる。
「オジいサン」はさておき、桃子さんの脳内に東北弁で沢山の声が溢れてくる、ジャズセッションのように。
故郷を離れて久しいのに。
ははぁん其のジャズセッションが暴走しちゃうんだね・・・?
と思ったが、そういう訳でも無く。
日々の暮らしで考える事、故郷を出て旦那さんに出会う迄の出来事、我が子の事、愛とは、四十六億年の歴史、未来・・・そして意味を探す。
綴られる何もかもが細かい。
普通に暮らしてたって、其の内容をこんなに細かく書ける?自分には無理だ。
思い出して書くのだって難しいのに、フィクションである、しかも作者の描いたモノが物語を読んでる誰かの中で過不足なく忠実に再生される。たぶん。
各エピソードの境目ははっきりするようでしない、其れがまた生活だなーって感じがする。
考え事して其の儘脱線しかかって戻って来て結論出たような気もするけどまたどっか行くような。
更に旦那さんを如何に愛して、先に逝ってしまった事のダメージが大きいかも厭っちゅう程伝わってくる。
亭主に死なれた当座は周造が視界から消えたということより、周造の声がどこを探してもどこからも聴こえないということのほうがよほど堪えたのだった。(p.124)
とか。
おらおら、は気合いのオラオラかと思ってたけど、桃子さんの中の沢山の「おら」「おら」なんだ。
沢山の「おら」、歴史の何もかもを連れて「ひとりいぐ」んだ。
あと、母娘って厭でも似ちゃうのだろうか。
娘さんと疎遠になる下り、娘さんだってお母さんと同じ事してるように見える。
厭だろうが何だろうが、結局娘は母と同じ事をしてしまうんだろうか・・・とちょっとどんよりする。
どうでもいいニュース:
「おらおらひとりでいぐも」だと思ってた。