社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

ライオンのおやつ

「ライオンのおやつ」(小川糸/ポプラ文庫)読んだ。

瀬戸内のレモン島にあるホスピス「ライオンの家」にやってきた女性の物語。
此処では日曜日にお茶会が開かれ、ホスピスで暮らす”ゲスト”の思い出のおやつが1つ出される。
主人公はどんなおやつをリクエストするのか。
帯に「毎日をもっと大切にしたくなる物語」とあるけど、そんな可愛らしい話ではなかった。
読んでいて玄侑宗久の「アミターバ―無量光明―」を思い出した。
「アミターバ」より重たかったかもしれない、其れは「アミターバ」を読んだ時より今の方が色々な経験を重ねているからかもしれないが。

ホスピスは規則が無い、強いて言えば「自由に時間を過ごす」事くらい。
最初はそんな“ええ”話あるんかな、と思っていた。
お隣さんはちょっとめんどくさそうだけどいい人そう、他のゲストは体調が良ければ美味しいコーヒーを淹れてくれる、可愛い犬が居て懐いてくれる、お粥等ご飯は美味しい。
犬と散歩した先では素敵な男性とも出会う。
でも病はどんどん進行していく、ゆったり時間を過ごしていても、いずれ制約が掛かってくる・・・奇跡は起こらない。
出会った人といずれ(遠くないうちに)お別れする事は解っている、何なら楽しくお出かけして帰ってきたら誰かゲストが亡くなっている。
厭でも死が其処にある。
色んな人を”見送る”中で死を受け入れていく・・・のも難しい。
明確に語られないけれど状態から”解る”時間の流れ、心の動きが読んでいて重たい。
「死を受け入れるなんて、そう簡単にできることではなかった」(p.170)というのも、かなり進行してきてからの言葉である。
日曜日のおやつ、其れは単なる”お楽しみ””心の支え”ではなかった。
其の意味は、リクエストした人其其の意味がある、そして読む側にも意味を持たせる。

自分は上手く人生を畳めるだろうか。
主人公のようにはいかないだろう、此れは物語だから。
がんはじわじわと進んでいく、いきなりパツッと”断たれる”のではないから少しずつ人生を畳んでいく時間があるのかもしれないと思っていたが、そうではないのだな。
「先の事が解らない、怖い」と仰ってた方を思い出した。
何だかんだで体調と折り合いを付け乍ら暮らしてはるんやと思ってたらそう仰ってて、「え、」ってなったのを思い出した。
そうなった時に、こんな風に思えるんだろうか、此の物語の主人公のように思えたのだとしたら、せめてもの救いになっただろうか。
”旅立つ”側も”見送る”側も。
「怖い」「痛い」で”旅立って”いかはったんやったら、”見送る”側もしんどい。

閑話休題

しかしタヒチ君の立場は辛いな。
常に”見送る”立場だから。
タヒチ君以外の”見送る”側の人間の話は余分なような・・・と少し思ったけど、此れは”見送る”側になった人の為の物語でもあったんだな、だとしたら最後まで必要な話なんだな、と。