社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

スーラージュと森田子龍 at 兵庫県立美術館

観て来た。



観たいなーと思って応募したチケットが当たった、家人を誘ったが非常に反応が渋い。
解りやすくは無さそうだもんな。
友人がお茶に誘って下さったので、「ついでに如何ですか」と声を掛けたのだった。
今日はかえるちゃんも元気。

フランスのアヴェロン県と兵庫県との20年をこえる友好提携を記念した展示、という事でアヴェロン県がどんな所かを紹介するポスターを観てから場内へ。
森田子龍は書家、「前衛書」の旗手として知られる方なのだそうだ。
書かれているのは文字のような絵のような。。。
「凍」は言われてみれば確かに寒そうだし、「脱」は其の文字自体に見えるか解らないけど何かから”脱”しているように見える。
重厚な日本家屋のお屋敷の和室に飾られていそうだ。
ボンドや漆を使った作品は、お屋敷の広い玄関に謎に飾られている木の断面みたいな衝立を思い起こされた。
清荒神清澄寺所蔵の作品も沢山ある、「ファンなのかなぁ」なんて呑気に観ていたが、森田氏の作品と向き合うのは禅問答に似ているのかもしれない。
しかし「忍」って「Shinobi」かと思ったら「Nin」、「寿」って「Kotobuki」かと思ったら「Ju」ってそっちの読みかーい!

一方、スーラージュは「フランスの国民的な画家として人気を誇る」そうだが、まじか。
一層難解である。タイトルすらも無い。
観る人が観たら「此のタッチは1950年代前半の絵」とか解るんだろうか。
クルミ染料が少し茶色い墨のようだ、墨でお描きになったらどうなんだろう・・・と思ったら墨で描いた絵が展示されていた。
刷毛目を褒められたのだそうだ、言われてみれば画材の濃さや形だけじゃない、描かれた/塗られた跡にも面白みがある。
心の赴く儘に衝動で描いたようで複雑な思考が成されて居そうだ、と思ったけど評論家みたくあーだこーだ深読みするのも莫迦莫迦しいぜ!な勢いもあるように見える。
しかしスーラージュ氏には世界がどんな風に見えているのだろう。
或る絵に添えられた文章によれば

私にとっては色も形も存在しません。あるのは「形・色・絵肌・透明・不透明」だけなのです。色とか形というのは、抽象の言葉でしょう。しかし、私自身にとっては、それらは抽象的ではなく、具体的なものです。たとえば、青とはなんだろう。キャンバスに塗った青と絹に塗った青はぜんぜん違う。透明、不透明によっても、青は異なる。色とは常に絵肌なのです。
ピエール・スーラージュ、1985年

とある。
日々の暮らしにある色に具体性を感じるのは、ちょっとしんどそうである。
「黒」だって色んな黒がある、クルミ染料の黒もあれば墨の黒、油絵具の黒もある。
黒ばっかりやーん!と思っても、全てが全く違う黒だったんだろうな。

途中、映像が流されていて、観た。
詳しくは解らないが、フランス人に「JaponのShodoを紹介するよ!」という内容っぽかった。
森田氏に限らず、筆を選びに行く姿や、実際に書を書いていく姿が古い映像に残されている。
煙草吸いながら書くんかーい!灰落ちたらどうすんの・・・と思ったら筆で叩いてはったり。
友人と一緒に観に行ってよかった、自分一人で行ってたら多分スルーしちゃってたな・・・。

コレクション展も観た。
「白髪一雄生誕百年特別展示」等の抽象画や「書と文字の作家たち」の版画は「スーラージュと森田子龍」展に合わせた展示なのかな。
白髪氏の作品、なんかすげー!かっこいいけどこわい!
「あびらうんけん」って何だっけお経だっけ・・・今ググったら「真言密教における胎蔵界大日如来真言」なのだそうだ。
観ながら暫く「あびらうんけんそわか」って心で唱えていた。
抽象画は他の方のも凄い。ちょっとマイルドだが迫力凄い。
版画は同じモチーフを繰り返したり、テーマは同じだけどモチーフが違ったり。
そういえば版画って”繰り返す”事が出来る技法なんだよなぁ。
小磯良平や金山平三は今迄にも多分観てる、しかし「スーラージュと森田子龍」が凄過ぎて観ていてほっとする。
「近代日本名作選」も面白かった、じっくり観てしまって時間足りなかった(汗)。

時間足りなかったのは近隣にあるJICA関西食堂に行きたかったからなのだった。
ランチ営業は14時迄、時間的に間に合うとしても各国の料理が売り切れちゃうかもしれないので。
食べたかったドロワット、というエチオピア風シチュー。

スパイシーなのだけど薄味であっさりしている。
ハラル対応の有無が明記されていて、注文も食べたいメニューの番号札を渡すだけなので大変解りやすい。
番号札が無ければ売り切れ、という事で。
職場、引っ越すなら此の近くにして欲しかった(笑)