随分前の話になる。
久しぶりに”綺麗な稲子”垢(サブ垢)のTL見たらどす黒い事になってた。世の中そんなに恐ろしい事になってたのか?
作品が好きで”綺麗な稲子”垢でフォローしてた方があったんだが、其の方のツイ&RTで埋まっていたのだった。
フォロー外したら何時もの「作品作りました」「出品しました」というほのぼのしたTLになった。
何でそんな話してるかというと、最近”汚い稲子”垢(メイン垢)に其の方のツイが流れてくるようになったもので。
RTしはるワッシュさんは全然悪くない、ただ悲しくなってミュートしたのみである。
「日日是好日-『お茶』が教えてくれた15のしあわせ-」(森下典子/新潮文庫)読んだ。
著者の森下さんがお母上のお友達でもある先生の元にお茶を習い始め、続けていくエッセイである。茶道は季節を意識しながら、精神を整え、鍛錬するものだと思っていたのだが、違うようである。
まずは意味が解らなくても、「何故?」と疑問に思っても、兎に角形を覚える。
何度も何度も繰り返していくうちに、段段感覚が鋭くなっていく。
すると部屋のしつらい、茶室の外の自然について”感じる””解る”ようになる。
感覚を磨く為に、思う存分“感じる”為に“成すべき事”を形として身体に叩き込むもののようである。
茶道で扱われる物事も、いずれ解るようになるのだ。
特に第七章・第十三章で描かれている雨や水音の違いに気づいていく様子が面白い。
読んでる自分も追体験出来る文章の細やかさと勢い。
雨降りの日の匂いや空の色については意識するかもしれない、でも季節ごとの雨音については考えた事すらなかった。
こういう経験が出来るのなら、お茶習っておけばよかったな・・・と思う。
そして鋭くなった感覚は、自分自身にも向けられる。
日々起こる事について悩む、其の事を直接解決するのではないけれど、自分自身の在り様が解れば迷わずにいられる。
「日日是好日」という言葉も、そういう所に繋がってくるのだと思った。
時間の流れの大きさ、豊かさよ。
森下さんは長い時間を掛けて知ってゆかれた。
其れはきっと他の方もそうなんだろうと思う。
途中で辞められた方はどうなんだろう・・・もしかしたらお茶から離れても、日々の暮らしの中でふっと気づいておられるのかもしれない。
お茶の世界は奥深い。
其れにしても、十二年に一度、其の干支の年のお正月と最後のお稽古でしか使わないお茶碗、びつくりだ。
其の人の人生のうちで使えるのは多くても数回、でも本来(?)なら代代受け継がれて、もっと出番は多くなるのかもしれない。
社会人になってほやほやの頃にお茶を習い始めたかったな。
自分がお茶点てるのは独学、興味があって一保堂茶舗のお茶碗・手ぬぐい等一式セットを買ったのだった。
そんで伯母だったら知ってはるんちゃうか?と思って一式持って行って、ざっと点て方を教わったのだった。
実は祖父がお茶やってた、というか茶道具コレクションしてたという。
sociologicls-acv.hatenadiary.jp
とすると小学校低学年の頃にお茶やってたら、祖父との思い出も出来たんだろうな。
森下さんのお茶とは全然違う世界なんだが。
どうでもいいニュース:
久しぶりにお茶点てたくなった。
底の平たいお茶碗はあった筈、問題は古くなった抹茶と先の折れた茶筅をどうするか、である。