社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

人気エントリで「うちの子が漫画読むけど本を読まない」という話を見た。
漫画も本じゃん!というツッコミはさておき、漫画読むなら良い方ですよ。
「漫画も小説も読まない、映画も観ない」シンガーソングライター志望のコ、いたもん。
作る曲はお察し、である。
多分音楽もあんまり聴いてないな。

「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」(河野啓/集英社)読んだ。

凍傷で指を失ってもエベレストに挑み続けた人を、初期から取材し、一時期疎遠になるもの再び追い始めた人のルポタージュ。
亡くなる前に炎上したりしてるのは見ていた。
栗城氏は面白い人ではある、ただ「面白い人だなぁ」で済まなくなってしまった。
関西弁で言う所の「いちびり」に見える。
夢見がちな“いちびり”さんが有象無象に持ち上げられて挙句こうなってしまったように思えた。
多分音楽でもアートでも、アーティストだったら良い方に持て囃されていたのかも。
初マッキンリー登頂、無茶して登って成功してしまったのは、不幸だったのかもしれない。
最初のうちにうまく行かなければ“自分に足りないもの”を探したかもしれないし、かっこよくない自分に気付けたかもしれないし、かっこよく無くてももがく過程を見せるのもアリだと思えたかもしれない・・・。
かっこよくない所、苦悩する所は見せたくなかったかもしれない(著者は撮ってなかった事を悔やんではるけど、もし撮っててもNG出してたんじゃないかな)、でも其れを注目浴びる方に活用出来たんでは、と思った。
そういう考え方の転換を促す人があれば。
或いは「裏で努力して、もっとかっこいいとこ見せたらよい」と言える人があれば。
「かもしれない」「たられば」ばっかりだ。

で、其処に群がってくるのがクソい人らで。
「起業家としての才覚がある」と肩入れした人あったけど、其れは登山家にそこまで必要な要素なんだろうか。
起業家がたまたま山に登った、でええんか?
違うような気がする。そういう人はサポート側に居たらよいのでは。
其の他栗城氏を応援するのは“如何にも”な人達ばかり。
「成功とは成幸である」とか言っちゃうコンサルタントとか、背筋鳥肌立つわー。さぶいぼさぶいぼ
そういう人らの言葉は心地良いだろうし、真似て深淵そうな事言っちゃうとウケも良かっただろう。
(実際、自分自身を向き合え、という意味で言われた「自分を見て登れ」というアドバイスから「山を見て登るな、自分を見て登れ」に変換しちゃったらしい。
 名言ぽいけど、山を見て状況判断出来なければ元も子もない)
アムとか講演会に招いてギャラ払う代わりに広告塔として利用している。
著者は其れでも比較的真摯に向き合ってはるけど、約束を守れない等で疎遠になってしまった。
(不義理した事に気づいていただろうか・・・)
周りに人は沢山居たけど、”仲間”はどの位居てはったんやろか。
大概クソなんだけど、乗るか乗らないかの判断は結局自分自身でしかない。
そこら辺の判断出来ない人が一大プロジェクト回せるのか、困難な登山出来るのか・・・と思ってしまった。厳しい事だけど。
インターネッツで叩くコメントする人らは勿論良くないけど、そいつらのせいにする以前にあまりにも杜撰過ぎるように思えた。
ブログのコメントに「あなた山に登るの、好きですか?」という言葉、返してはるとしたら何て返してはったんやろ。
抑も返せたのか・・・。
持ち上げて利用してきた奴ら、どう考えてんだろうな、今。
一人くらいは面白がってる奴居そう・・・次のカモ見つけてチヤホヤしてそうで怖い。

“乗っかった”悔しさもあるんだろうな、著者には。
ディレクターとしての性だけじゃなく、其の悔しさの落としどころが此の本だったのかなぁ、と。

“新しい”“誰もやらなかった”事をやろうとして批判する人があるのは、嫉妬だけじゃなく「誰もやらなかった」理由がある事、思慮が足りてない事、あと持て囃す輩の無責任さが透けて見えてるからかも。
此の件に限らず、やーやー持て囃して利用してポイしてだんまりじゃん?