社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

フィクションとしての社会

Adoのインタビュー読んだりラジオで曲聴いたりしていて思ったんだが、折角物理的な体以外にディスプレイに表示される絵に描いた体持ってるんだったら、もっと自由に動く体にすりゃあいいのに。
「踊」で物理的にはありえない踊りしながら歌うとか。
何なら物理的な体と仮想的な体の両方行き来するとか・・・其れは既にあるのか。

「フィクションとしての社会 社会学の再構成」(磯部卓三・片桐雅隆/世界思想社)読んだ。

此れは恐らく卒論用に読んだんではないだろうか。
(図書館で借りてでも色々読めばよかったのに・・・てか大学時代もっと図書館で本借りて読みゃあよかったのにな)

フィクションというのは”つくられたもの”、記号によって作られる一切のもの。
じゃあ社会現象も人間のつくり出したものだよねー、という話である。
雑に言うと。
「人間の創作活動によってつくり出されるフィクションが生きている現実となる」「フィクションとしての遊びは現実の中へ持ち込まれるとともに、日常生活からの離脱・異なる現実をもたらす」等。
ふむ。
何となく感覚では解る、だが言葉で説明出来ないなら理解出来てないんでしょうな。
当時の自分は此れを理解していたというのか。
そんなような理論を踏まえて恋愛や病、都市等について分析していく。
恋愛という形の無いものについて語るにはそういうフィクションを使うのは丁度よかったのかもしれない。
病に関しても伝統的に呼ばれているモノを一旦受け入れて近代医療の病気へと命名し直して治療する、という話が紹介されている。
京極堂の憑き物落としみたいだ。

最後の論文、“おたく”の扱いが雑ッ!
話としては面白いんですけども。
1996年に出版された本に載ってるから今読むと感覚がめたくそ古いんかも。
当時より今はおたく/悲おたくの二元論の溶解(ボーダーレス化)が進んでるんでしょうな☆〜(ゝ。∂)
テレ・メディア環境の発展によりナルシシズムを増幅させる、というのは成程そうかもしんない。
「身体的実在性が欠如したテレ・メディア・コミュニケーションは、対人的な緊張が希薄であるがゆえに、他者の態度の取り入れや他人への配慮を十全に作動させないように作用すると推論できる」(P.244)とか、此れ以降の時代の流れを予知してるみたいである。

どうでもいいニュース:
書き捨てて後で読み返してエントリ書こう・・・としたら字が汚すぎて読めなかった。ウウッ