社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論

また社会学の人やらかしたん。。。
社会学というのは「ホニャララとはこうだ」という1つの見方(常識とか)を「果たしてそうかな?」と違う視点で見て分析・論じる学問であって、視点や社会そのものを歪ませるもんではないと考えている。
その見方を学ぶのが理論社会学で。
そういうのが面白かったんだよ、社会学
その人の論が正しいのか妥当なのかを見定めるのは数学や物理学のようにはかっちりと行うのが難しい(人が違えば見方も考え方も変わってしまう)、だが屁理屈とか言われてる時点でクソですよ。
屁理屈に見えても其れが妥当である事を論じていくのが社会学者でしょうに。←其れも言い方がダメか。
一部の悪目立ちする人らや彼らを批評する人達見てると、恩師の年賀状に添えられた一言が年年絶望に満ち溢れてきている理由の一部が見えたような気がした。
(てっきり「研究したいのに事務仕事やら何やらそれ以外の雑務が増えてつらい」んだと思ってた。それどころじゃなかったのかも)

「失踪の社会学 親密性と責任をめぐる試論」(中森弘樹/慶應義塾大学出版会)読んだ。

失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論

失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論

「グローバルな時代を生きながら、何故家族・親密な関係といったローカルな人間関係に固着するんだろう?」という問いについて、「失踪」という観点から仮説立てて、検証する為に定義して必要なデータを取得し、分析する過程、其処から導かれる結論(の一つ)を論文→書籍に纏めたものである。
社会学って、こういうもんだと思うよ。
理系学問の方からしたら手緩いかもしれんが。
此の手段の取り方が社会学だよなー、と思った。理論社会学ってこういう感じで懐かしい。
(そもそも新書ではないガチ社会学の本読む事自体、学生時代以来なんじゃないかねぇ)

「親密な関係」からの離脱に対する抵抗感、という所から始まる。
雑に書くと、責任を問うて追い込むのも他者なら、其れを赦し逃すのも他者・・・と読めた。
個人化が進展する事で価値規範の普遍性が失われる、すると他者からの承認の比重が上がる。
すると「親愛なる者への責任」の重要性が上がる。
仕事だとか趣味だとか、個人が所属する「親密な関係」という人間関係の柵だと「ああするべき」「これやらなきゃだめ」みたいなんが発生するんでしょうな。
だが責任が果たされる事というのは稀。
関係修復が責任を果たす事になるが、其れ故に修復が困難になる。
過剰な責任から個人を逃がすのが「失踪」である、と。
此処でも他者がどうとか出てくるんか!

失踪者の家族の側はというと、失踪者と同じように他者から責められる。
(その辺の流れはちょっと読み飛ばしてしまったが、他者から見たら失踪者&その家族で一塊、なのかね)
失踪者の生死が曖昧だが死の儀礼的・制度的・法的な線引きは家族に委ねられる。
そりゃしんどいわ。
失踪者が「親密な関係」から抜けるのって裏切りとも言える、でも責められない。居ないから。
ほんで失踪者&その家族に対して「裏切りだ」って責任問われちゃう訳で。
「死んだかもわからん」みたいな認めたくないような事も認めざるを得ない。
失踪者を家族が責めるのは疲れちゃったのもあるんだろうな。
(支援の方は第三者として寄り添ったり一定の距離保ったりしながら合理的推測して、「望ましくない結末」の直接的断言を避けつつ”喪失の物語”を共に作り上げていく、そうやって失踪者家族の気持ちのやり場を作る・・・という事か。”気持ちのやり場”は自分が勝手に考えた)
あと失踪者の配偶者と親とで距離感が違うのかも。
親子ってのは特別かつややこしい人間関係、配偶者みたくすっぱり責められないとか。(とちょっと勝手に考えた)

久しぶり過ぎるくらい久しぶりにガチ社会学の本読んだんで、あんまり理解追い付いてないので「それちょっと違うで」はあるだろう。
言いっぱなしじゃなく、きちんと定義・分析して論じるとこうなるんですよ社会学って、というのが此の本から伝わったらよいなぁと思った。
すべての価値に中立的であることはできないのだ(p.167)

欲を言えば、失踪者や失踪者の家族、支援者の実例が挙がるのであれば、そこら辺をもうちょっと詳しく読みたかった気がする。
論を進める為に掻い摘んで書かれているのだが、ちょっと物足りない。
「はじめに」や章の頭で挙がっている映画の話は詳しいのになー。
ルポではないから要らん、という判断か。

どうでもいいニュース:
小松和彦さん出てきた。「神隠し」について。