「skmt 坂本龍一とは誰か」(坂本龍一、後藤繁雄/ちくま文庫)読んだ。
其の時々のアモルファスな坂本龍一を、御本人の言葉で形にしたもの。此の本の為のインタビューをした時の言葉だけど、もしかしたら「skmt」「skmt2」という形になった時点で違ってるかもだし、更に「skmt 坂本龍一とは誰か」という文庫になった時点で違ってるだろうし、其れを自分が読んでる今はもっと違うだろう。
世界の坂本龍一でそうなら、という謎の安堵。
後に即興に関心が向かっておられるようだけど、此の当時はお好きではなくて「決まったフレーズを繰り返すのが気持ちがいい」とか、「思考・生活に一貫性を持たせたくない」とか。
「不完全だから言い表せない」とか。
人間、矛盾だらけだもの。
其れは坂本龍一という一定の地位を築いた人でも、其処ら辺の駄目人間でも同じなのかもなぁ、と思うとちょっとほっとする。
21世紀の有り様、中国、音楽・・・まるで予知のようでもある。
でも戦争はなくならなかった。
抑止された人間の闘争本能は戦争に向かったのでは、という気がした。
「戦争自体はどんどん目に見えないものになっていく」(p.171)とあるけど、令和の今の戦争は見えないもの、見えるもの、嘘で隠されたものと無駄に多様化しているような。
あと「村上龍と坂本龍一 21世紀のEV.Cafe」(スペースシャワーブックス)も読んだ。
村上龍や坂本龍一であっても「昔は良かった」モードになり得るのか。とはいえ、単に懐古するんじゃなく、80年代について「嘆いているようで明るい、未来に希望があった」と理由を見出してるのはお二人ならではなのかな。
「変な人のはずなのに、良い人の振りをする、あるいは良い人であって欲しいという国民の社会性がおかしいと思うんです。」とか成程なぁと思う一方、でも「良い人であって欲しい」と思いたい気持ちも解る。
塩崎さん的に今の自民党はどうなんだろうか、今はもうクソっぷりに塗れちゃっただろうか。。。
どちらでもコミュニケーションの話が出ていたような。
「skmt~」では「いかに正しい事を書いてもつながらないとコミュニケーション出来ない」と仰い、「21世紀の~」では「音楽は他人の耳・心に届いた時にはじめて成立する、という考えに至った」と仰っている。
こないだも触れたが、学生時代の音楽論講義の先生が話を聞かない学生にぐだぐだ言ったのに対して、試験のレポートで坂本龍一引き合いに出した自分はそんなに間違ってなかったのかもしんない。
こういう本は学生のうちに読んどく方が良いのかもしれない。
というか自分自身がもっと若いうちに読んでおきたかったと思う。
こんな所で自分の脳味噌の老化を突き付けられるとはな。。。
此れから坂本龍一の居ない世界を生きていかなきゃならないのか・・・と思った。
今迄は世界の何処かには居た、今は何処かにはいらっしゃるのだろうけど自分の居る、認識出来る世界ではない。
何て心許ないんだろう。