社会学的ラブソング・改

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流浪の月

「流浪の月」(凪良ゆう/東京創元社)読んだ。

流浪の月

流浪の月

満を持して読んだ。
腹括って読まねばならぬ、と思っていた。

序盤、読むのがめためたしんどい。
更紗の大好きな、いつまでも続いて欲しい生活が壊れ、好きな事を制限されても性的虐待されても耐えなきゃいけなくて、漸く逃れてもまた一瞬で壊れてしまう。
文も自分自身について悩んでいる事も其れ自体も理解されない、されないまま蔑まれて生きざるを得なかった。
誰にも理解されない上に、違う、厭な形のストーリーを押し込まれて可哀想可哀想酷い変態と言われ続ける訳で。

決して解決する訳ではない、お母さんに再会するとか当時の警察関係者が一言「済まなかった」と言うとか、全く無い。
ずっと続くまま、これからも続く事は想像出来てしまう。いやあああああってなる。
でも、読み終わって「ほっ」とするのは何故だろう。落ち着くところに落ち着いたな、という。全然そうじゃないのに。

本当の事なんて当人が知っていたらよい事なのに、全く関係ない人が知って、解った事にならなきゃいけないのは何故だろうね。
“知る”とは或る意味快楽だ、だから知りたくなるのは解る。
(そういう観点だと、この物語を読むのだって快楽塗れなんだ)
だけど当人が否定しても一度“解った事”、それもなるたけ世間様の“そういうもん”にそった形になった其れを変えられないのは何故だろう。
自分が解り得ない範疇は存在しないのか、できないのか。
恐らく2人の関係は“愛”なんだろうけど、その言葉で定義出来る範疇ではないのだろう。

全然関係ないけど、星野源の「恋」の「夫婦を超えてゆけ」「二人を超えてゆけ」を思い出した。
そういうもんを超えたとこにある関係。
お互いの足りないところにそっ、と嵌る関係なのだけど、それだけではなく。

どうでもいいニュース:
かといって今後もし幼女誘拐事件が起きた時にこの物語を思い出すのは誰に対しても失礼なんやろな。
何処までがストックホルム症候群で、何処までが本心なのか、其れは誰に解るというのか。