社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女

某イベント(音楽フェスとは呼びたくない)というかヒップホップ関連、次から次から酷い話出てくるな。
自分の生活圏・文化圏に無さ過ぎて呆れ通り越して虚無が。

「日本SFの臨界点 石黒達昌 冬至草/雪女」(伴名練・編/ハヤカワ文庫JA)読んだ。

ネオクラシック小説とは言い得て妙だ。正にそんな感じ。
とはいえ、読んだ感触はノンフィクションなのである。
「王様はどのようにして不幸になっていったのか?」はお伽噺のようなんだけど、実際に何処かの国家が滅んでいったのを万人に理解出来るようにお伽噺のテイで書いたものなのかも?と思ってしまった。
「或る一日」「ALICE」はSFっぽい。逆にフィクションっぽい作品もあるんだなぁ、とすら思ってしまう。
SFと純文学って近いとこにあるのかと思っていたが、解説読む限り其れは割と最近の事だったりするのかもしんない。

もしかして、SF小説ってのはワクチンになりつつあるのかもしれない。
あまりに世の中がトンチキ過ぎて、SFのみならずフィクションを紡いでいく作家さんがやりづらい世の中になってきた。
石黒さんも著者あとがきで

コロナのおかげで、ノンフィクションのみで構成される日常以上に恐ろしいことがないことを、私達は嫌というほど思い知りました。SFにおける「科学の危うさ」が、純文学における「神の死」同様に、叙述上のファッションだった平和な時代は、遠く過ぎ去ってしまったのです、恐らく、永遠に。

と書かれている。
でも文学、フィクションとしてトンチキな世の中に触れておく事で、色んな事を想像出来るのではないか。
新コロが蔓延し始めた頃、他の作者の作品だが「天冥の標」を思い出した人は多かった。
フィクションとして読んで体験しておく事で、ノンフィクション・・・現実がアレな時に「○○みたい」と一旦自ら切り離して「○○だったら、あんな風になったな」「ああはなりたくないな」って心構えくらいは出来るかもしれない。
そう考えると”叙述上のファッション”だって現実の役に立つんじゃないか。
何時になるか分からない、人類が新コロ乗り越えた先(ったって世界情勢えげつない事になってそうだが)で、石黒さんの新しい作品が読めたら、と願いながら頑張って生きたい。

特に印象に残っている話。
・希望ホヤ
娘が生きられるように、というのは古今東西現実フィクション問わずあるけれど、上っ面だけ信じて悲惨太郎、じゃなく自ら知識を得て調べて理詰めで試してみようってお父さん素晴らしいな。
・・・で終わらないのが酷な話。
そういう出来事だらけなのかもしんない、世の中。
冬至
「死んでなお、いい加減な紙に支配されたくない」って強い言葉だな。
其の言葉の意味を考えながら、読み返したい。
・平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群で急逝された明寺伸彦博士,並びに,
此れ小説なんですよ。嘘だろ?
ハネネズミについての研究の経緯だけど、実際にあった何等かの研究の経緯の事なんでしょう?
本編の後の「この本を読まれた方へ」の冒頭に

「遺伝子の唯一の誤算は人間という生物を作ってしまったことだ」

とあるが、誤算だらけなんだろうな、実際。
誤算踏まえて遺伝子がどう進化していくのか。生物はどうなっちゃうんだろうね。

どうでもいいニュース:
福武書店、罪深いな・・・進研ゼミに力入れるのは商売として道理なんでしょうけども。
時代の流れなんだろうけど、今の「文藝」とか見てたら、もしかしたら「海燕」が生き残っておれば、面白い小説が沢山世に出ていたんだろうか・・・と思ってしまう。