今回のオリンピックは「よく頑張ったよ、えらいよ」と思いながらニュースを観ている。
自分にしては珍しく。
幼少期から如何にして生きて、各地を訪ねて記録を残して、歩き続けてこられたかを御自身が綴られたもの。
農業の人だったんだな、そして現場の人である。
研究者が各地を巡るんじゃなく、現場からものを観て、綴り、残す。
暮らし・生きた証を残す民俗学だったんだな。
かしこくなるということは物を考える力を持つことであると思う。物を考えるには考えるための材料がなければならぬ。それは周囲にあるものをよく理解し、同時に、もっと広い世界を知らなければならぬ。(略)
(p.148)
本来”学ぶ””勉強する”、いやもっと根源である”知る”とはそういう事なんだろうと思った。
”考えるための材料”を少しでも増やす為。
というか宮本氏の半生というのがめちゃくちゃドラマチックである。
郵便局員になったり小学校の教員になったり(此の先生に教わる事が出来た子供達は幸せ者だな)大阪府に請われて生鮮野菜の対策を立てたり農業指導をされたり、其の間にも北海道の入植地を見て歩かれたり農村漁村を訪ねたりアチック・ミューゼアムで研究されたり、読んでるだけの人間も忙しくなっちゃう位である。
もしかしたら、今必要なのはアチック・ミューゼアムみたいな民間研究所なのかもしれない。
って、今も日本常民文化研究所として存在するが。
”つよつよの趣味”として色んな土地の文化や伝承、或いは特定の品等を残す方は民間にいらっしゃって、SNSでよく拝見している。
其其の方同士の繋がりもあるようだ。
「此れについては此の人がとても詳しいので興味ある人は見たら良い」と紹介されているのを時々見かける。
そういうのをまるっと残していけたら、後後の誰かが見て知って、考える材料となれば。
「忘れられた日本人」も読まなくちゃ。