社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

鬱屈精神科医、占いにすがる

むかーし、有名な占い師さんに占って貰った事がある。
駅前のタクシーに「誰某さんの所までお願いします」って言うとするっと通じる位の。
一緒に行った友人と自分とでほぼ同じ悩みで行ったのに、言われた内容が全然違う、そして「何で自分じゃなく友人にそう言うのだろう、自分に言って欲しい」と思った。
そう思えてる時点で「此の子にはそう言わなくても大丈夫」と判断されたんだろうか。
筆跡や受け答え等から性格判断してはったんかなぁ、でも其れだけじゃなかったような気もする。
今振り返って「別に占い師さんの言う事を信じて実行した訳じゃないのに、結果的にそうなってるわ」と思った件があるので。

「鬱屈精神科医、占いにすがる」(春日武彦河出文庫)読んだ。

サイコパス解剖学」で平山さんと対談されていた精神科医の方だ。
身も蓋も無くバッサリ!という印象が強かった、ああいうバッサリ!な方による「精神科医が占いに行ってみた」でもルポ・・・というよりは占いを切欠に己と向き合った記録である。
エッセイと呼ぶには重厚過ぎるかもしれない。
そしてちょっと難しく、しんどい。

自己嫌悪。
未練、セレモニー、自己嫌悪の屈折した娯楽性、依存性。

というメモを残していたが、果たして何だったのか。
本自体もメモも読み返して「あれ?」ってなってる。

人生は反復と相似とで出来ている、そして人の心模様は「(信じたくないけれども)驚くほど図式的」と、其処まで落とし込んで世界を理解していたら随分生きやすくなるのでは・・・と思ったが、そうでもなさそうである。
生きる意味とは「類似と相似とを見つけ出す営み」というのも。
其処まで割り切れたらなぁ、しかし難しいのが人間の心、人間の厄介な所なのかも?

あと「救い」についての話も興味深かった。
苦しみが解消するだけじゃなく、慈愛に近い「大いなるもの」の実感、悩み・苦しい故に遠ざかっていた日常が戻ってくる事・・・此の「慈愛」が感じられるかどうかは「確かになぁ」と思う。

メンタル病む人が心理学やったりカウンセラーになりたがったりするのは知ってるが、精神科医になるパターンもあるのか。
手の内が分かるのが辛い所よ(ワテもカウンセリングは授業で概要浚ったんで、なんとなくわかる)

占いは“当てもん”ではないのかも、先生の思いとは違って。
精神科医・カウンセラーとは似て非なる見方。
春日先生にはもうちょっとぶっ刺さる占いしはったら良かったのでは、というかそういう”如何にも”な占いに行けてはったら良かったのになぁ。

どうでもいいニュース:
飯田橋と板橋は“使わせて”頂くぞ。