社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち

変な時間に目が覚めてトイレ行ってまたお布団入って横になってたら軽く寝坊した。。。

「その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち」(上岡陽江+大嶋栄子/医学書院)読んだ。

暴力等理不尽な体験そのものを生き延びた”その後”、生き続ける為に不自由を抱える人達について書かれた本。
(違う”不自由”を乗り越えたり付き合ったりしながら生きる人達についての本かと思って借りてきたのだった)
「その後」とあるけど「真っ只中」だと思う。
依存症の方の行動・考え方の傾向、そんな自分自身とどう付き合っていくか、生き延びていくにはどうしたらよいか。
依存対象から少しずつ外れていきましょうね・・・という訳にはいかない。
女性だと生理との関連もある。
援助者も簡単ではない、「常に裏切られる」とある。

”そこそこ健康”な家庭に育つと、親・兄弟、親戚、友達や学校の人、近所の人・・・と幾重にも守られているが、家庭の中に緊張があると、そういう守る存在”応援団”が無く、境界線を壊されて”頼れる存在”として責任を負わされてしまう。
一人で背負うべき責任を超えてしまうと「これだけ背負ってるんだから私の痛みも背負って欲しい」となり、痛みの区別がつかない、自分の問題は責任持たないけど他人のは責任を取ろうとする・・・等。
回復するには、まず自分の言葉で喋れるようになる事、自分の都合優先出来るようになる事、変化する自分の身体と付き合えるようになる事。
「回復するとは回復し続ける事」なのだそうだ。
言葉で伝えられない一方、テレパシーで伝わると思っている・・・「言わなくても解ってくれるよね」という事だろうか。
著者達は「私にはわからないからね」と言うようにしてはるそうだ。
抑も「相談する」「愚痴を言う」事自体が難しいそうである。
言葉に出来る事が大事なんだろうな。
自分は依存症ではない(と思う)が、抱えている気持ちをどれだけ言葉に出来ているだろうか。
普段愚痴っぽいけど、自分の気持ちに落とし前つけられるような愚痴、どれだけ言えてるだろうか。
あと、愚痴を流せるのかどうか。
愚痴を流さず”相談事”としてがっつり受け止められる事もあるかもしれないし、愚痴を上手く流せない人もあるかもしれない。
依存症云々とは関係なく。
ちょっと考えてしまった。

人間、「ちょっと寂しい」くらいがちょうどいいのだそうだ。
色んな付き合い方があるし、選んでいい。

”日常がない人”でもあるので、生活を楽しむ、「普通の人たち」の姿を見るのも大事らしい。
依存症の方向けの施設だと「生活を楽しめるようになる」事も重要視されてるようである。
確かに断酒・断薬出来ても生活できない、生活がしんどいとまた・・・かもしれない。
日常生活を送るの、実はすごく難易度の高い事なのかな。