社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

一汁一菜でよいという提案

去年一昨年と「新鮮なうちに!」と滝家の米を食べまくっていたらすぐ食べ切ってしまって悲しかったので、今年は土日に大事に大事に食べる事にした。
(流石にお弁当のご飯にするのはちょっと勿体なかったかも)
なので土日は滝家の米を美味しく食べられる特別メニューを考えている。難しい。
カルビー大感謝祭の美味しいお芋も活かしたいし。

「一汁一菜でよいという提案」(土井善晴新潮文庫)読んだ。

料理だけじゃなく、生き方・暮らし方について書かれている。
食はそういうとこに繋がっていくからだろうか。
「一汁一菜でよい」というのは「無理しなくっていいんだよ」というより「食を通じて生活を見直そう、今迄おざなりにしていた大事なことに目を向けていこう」という事のようである。
手を掛ける所と掛けない所、ハレとケを上手く区別し使い分けてきたけれど、今は混じってきていますよ、と。
何故お味噌汁なのかというと、ご飯・お味噌汁・お漬物は人間が意図してつけた味ではない、食べ飽きない。
お味噌やお漬物に含まれる小さな大自然
えーっご飯は飽きちゃうよう、と一瞬思ったが、滝家の米だったら確かに食べ飽きないわ・・・。
因みに”一汁一菜”はスタイルとして、なのでご飯はパン・パスタでもよいし、お味噌汁にベーコンが入っていてもよい。
一度シンプルな食生活にしてリセット掛けてみるのも良いかも。

どうしても頭でっかちになって”美味しい”を判断してしまうけど、身体が”美味しい”と判断する事にも意識を向けていきたい。

作る人と食べる人の関係についても触れられていて、レストランでは作る人と食べる人の間に相互の情報(料理や支払い、幸福感や感謝)遣り取りがあるがチェーン店は遣り取りする情報が少なくなり、コンビニ食は情報の遣り取りが無くなる・・・とあるが、そこんとこどうなんだろうな?と。
今なら食べる人の反応はSNS等を通じてチェーン店・コンビニ広報→作り手、と伝わっているんじゃないだろうか。
情報としては少ないかもしれないが。
パンの耳を残さず食べた子とお母さんに対してヤマザキパンの工場で働いてた人達が「食べてくれてありがとう」ってリプライする事だって可能だ。
togetter.com
あと、料理自体は美味しいけれど厨房でシェフが怒鳴ってるの聞こえてくるのだとしたら、情報の遣り取りはあっても幸せな事なんだろうか?と少し思った。

読み終わって、「ごちそうさまでした」と心の中で合掌した。
さて、お芋メインの具沢山味噌汁作るかー。

其れにしても、具沢山味噌汁って地味に楽だよなぁ。
一時期「お洒落カフェあるあるの具控えめあっさり味噌汁作るぞ!」と頑張っていたが、どうしても具が多くなって再現出来なかった。
別の料理作った時に余った人参・大根等をちょこっとずつ纏めて冷凍しておいて、お味噌汁作る時に放り込んでいるが、其れでもちょっと多めになるんよね。
一人分ならお味噌をお湯で解くだけで良い、というのはちょっとびつくり。
お鍋を火にかけて・・・という意識が強かった、よく考えたらあれは具材に火を通す為だったんだな。
逆にお味噌解いてから沸かしちゃ美味しくなくなるし。
具材に火を通す時に其其の旨みがお味噌汁に反映するのかな、化学変化起こしてるのかもな、とは思う。

どうでもいいニュース:
はてなんとこにあるAmazon商品紹介で「一汁一菜」検索したらえらいこっちゃである。