社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

あーモヤモヤする

今日ドラムあるんだっけ・・・と行ってみたらお休み。
緊急事態宣言中は休止との事。
まんぼうだの緊急事態宣言だの出てるが、去年ほどがっつりではないので「此れは大丈夫だっけ」と戸惑う事も屡屡。
クリーニングの受け取りと買い物には行かねばならぬので、ドラムがあろうがなかろうが家を出なければならない事に変わりは無いのであった。

土曜日なので新聞ゆっくり読む。
論考として掲載されているのが、例の車椅子の人の話。
「切実な声が社会を変える」・・・確かにそうだ。
一連の経緯をブログに書いてバッシングされた、問題提起した側の態度こそが問題だ、権利主張を「わがまま」とする方がおかしい、バッシングの背景にあるのは日本社会に漂う”主張する弱者”に向けられた嫌悪感ではないか・・・それも一つの考え方だろう。
普段電車やバスで見かける車椅子の方は毎回「何時何分に乗って、何時何分に降りるので対応よろしく」って伝えなきゃいかんのだろうか、其れは面倒だろうなー、バリアフリーが進めばそんな面倒が無くて良いよなー、とは思っていた。
だが、ただ「こんな事がありました、こういう権利を主張するぞ!」じゃなかったから炎上したんでしょうに。
主張の仕方が悪かった。過去にあった事も追い打ちをかけた。
もし同じ事をおデージンや大企業の会長・社長みたいな強者、或いは好感度ばりばり高い有名人がやったとしても同じように炎上するんじゃないかね。

で、この論考で何が一番腹が立ったかって、「交通機関を利用するたびに『感謝』の気持ちを表す人などほとんどいないだろうに」って書かれていた事だ。
え、バスという交通機関使う時に「ありがとう」って降りる人おらへん?ワシだけ?
電車は自動改札だから駅員さんと顔合わす機会ないけど、挨拶・声掛けしてはったら会釈くらいはする。
「ほとんどいない」と言われると「はァ!?」ってなる。
其れが其の人の業務のうちでも”やってもらった事””助けてもらった事”に対して「ありがとう」って言うの、当たり前だと思ってた。
そして此の”当たり前”は自分にとっての”当たり前”で誰かの”当たり前”ではない、とも認識している。
でもさ、いるには、いるんだよ。
さっきワシだけ?って思ったけど、ちょいちょい見かける。軽く会釈してはる人とか。
自分がそうするようになったのは大学の頃のバイトで一緒やった人の影響である。
飲食店のバイト経験もある人で、「自分がお客さんに言われて嬉しかったから」と料理・飲み物持ってきて貰った時に「ありがとう」を言っていた。
其れもそうやんなー、と思って。
「ありがとう」ってなんぼ言うても困りませんからね。(ミルクボーイのネタじゃあるまいし)
”やってもらった事”に「ありがとう」って言ったりそういう会釈したりするのは、強者か弱者か、ハンディキャップがあるか否かとは関係ない筈である。
感謝の気持ちを示すのは卑屈になる事とは全然違う。
其れは件の車椅子の人のブログが炎上した時にも思っていた。
・・・ちょっと話ずれた。
「ほとんどいないだろうに」ってあくまでも此の論考書いた人の主観じゃんよ。
数えたん?
少なくとも自分は普段の生活の中で”いる”のを目撃してる。

というか、あの論考、件の車椅子の人を擁護する為に書かれたんだと思うけど、めっちゃ悪手じゃない・・・?
ああいう書き方してなければ「なるほどなぁ」で済んでたんじゃないか?