社会学的ラブソング・改

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呼び覚まされる霊性の震災学

「呼び覚まされる霊性の震災学」(金菱清ゼミナール/新曜社)読んだ。

これまで震災に関するルポは幾つか読んでいるが、何が違うかというと東北の方により成されたものだという事。
外側から来た人によって聞かれ、書かれたのではなく。
そして他の媒体が目を向けなかったところを取り上げ、丁寧なフィールドワークを重ねて論文を書いておられる。
(学部生でもなし得てるのに一部の社会学者ときたら・・・)
ちょっと無理矢理かな?と思う所もあったが、目の付け所が良かった。
話題になっていたのはタクシー運転手の方の話だが、震災遺構や慰霊碑の在り方、弔い方、社会的に孤立した被災者(コールドスポット)、消防団、猟友会。

残すか残さないかは一旦”保留”する、追悼でも教訓でもなく「生きていた」「生きていた事を覚えていたい」という”記憶”の為の慰霊碑の在り方等は当事者の方だからこそ解る事なんだろう。
語る側も収集・調査する側も辛い事だったろう、それでも”話”を残してくださって有難いと思う。
タクシードライバーの方の話については、「何故タクシードライバーなのか」という観点での分析や感情のモデルから考察されているのが面白い、面白いって言っちゃいかんのだろうけど。
もしかしたら身内ではないが地元の、何があったか等知ってるタクシードライバーの方に出会う事で幽霊と呼ばれている方々も何か気づいて、気持ちの置き所を作れたのかもしれないな。
しかし「手を取った」話はびつくりだった。

心のケアについては”近い人”同士、或いは敢えて”事情が違う人”同士というように、その時の心次第で流動的に話し合う事が出来たらよいのだろうか、と思った。
「私に比べたらまだ・・・」とか「もっと辛い人もある」とか「もっと注目される人もある」とかあるけど、第5章で話をされている方に関しては読んでる自分からすれば何と壮絶な経験をされた事か・・・と思ってしまった。
どんな関係なのか(親だとか子だとか友人だとかご近所さんだとか)関係なく、其の人にとって辛かったのであれば「辛かった」と言えたら。無理せず。
此れからそういう人、そういう話は出てくるのかもしれない。
時が過ぎたから言える事も沢山ある。

敢えて担当を決めない、というやり方もあるんやな。
其れが出来る分、人間関係を密に築いているという事なんだが。
時代の流れで、どうなっていくんだろう。