社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

津波の霊たち 3・11 死と生の物語

津波の霊たち 3・11 死と生の物語」(リチャード・ロイド・パリ―、濱野大道・訳/ハヤカワ文庫NF)読んだ。

まーた東北の文化がどうたらこうたら言いながら震災の話するんだろと思ってたら、日本在住の英国人ジャーナリストが大川小学校での津波の件(粗筋には”事故”とありますが)や被災者のケアを行う僧侶を丹念に取材し、当時何が起こったのかを書き上げつつ日本人の性質や政府への批判をチクチクぐさぐさ刺していくルポタージュである。
後世に残されるべき本である。
ただ人には勧められない、記憶が強くある方なら尚更。
読むのがただただつらい。
此処に書かれているのはほんの一部の、大きくて重大な真実。
違う人が話を聞き、書いたらまた違うのかもしれない。
でも変に脚色するような人ではなく、気持ちを寄せつつ客観視出来る人でよかった。

生き残った教師、唯一の大人の話も書かれているけれど、これが真実ではなかったようである。
酷い。
酷いんだけど、あの時あの場所に居なかった人間には何も言えない。
非常時に何処まで冷静に行動出来るのか。
真実は語れないんだと思う、それは隠蔽しようとかそういう類ではなく。思い出すとぶっ壊れそう。
だが子供達の家族には到底受け入れられない、違う悲しみ、苦しみと闘ってきた方達だ。
子供達が見つかる、又は何があったのかが解ればまだ”気持ちの遣り場”がある。
章題に「真実がなんの役に立つ?」とあるが、そういう事なんじゃないか、と。
教師を守る為だとしても、真実隠しちゃいかんだろ、責任誤魔化しちゃいかんだろ。
そこで教師の分責任負うのが校長や教育委員会じゃないのだろうか。
子供達が何時、どのような姿で見つかったか(見つからないままか)が違うし、ご家族だって人間だって考え方だって一人一人違うのだから、分断があっても其れは本当にどうしようもない。
(あと我慢強い東北の方の気質について触れて論じておられる個所があるが、それは東北という土地柄云々だけじゃないと思う。)
その一つ一つをどれだけ受け止めていけるんだろう。
こういう文献・書籍として書き残す人、追悼行脚や傾聴で心を支えてこられる人がその一助となれば。
(こうやって読んだり話聞いたりして”知る”のが、更に何らかの形で一助になるだろうか・・・甘いか)

被災者のケアを行う僧侶の方の話はまた別なのでは?と思ったが、”気持ちの遣り場”という観点では通じるものがあるのか。
オーバーラップするように書かれている。

「(中略)幽霊を見たと話していますが、実際には家庭でのトラブルのことを話しているんですよ」(p.371)

というのも、”気持ちの遣り場”なんだろう。
直接ぶつけられない気持ちを違う形にして吐き出す、受け止める。
しかし水に関係しているとはいえ直接震災とは関係ない方が憑依というのも大変だな・・・何でまた。