社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

「ユリイカ」2020年9月号を読んで

”推し”という言葉を使えば「アイドル視」とか言われる昨今。
一方でジャンルの越境もあり、その場合に「郷に入りては郷ひろみ」もとい「郷に入りては郷に従え」とならないで「あの界隈だとこうなのに、この界隈は違うんですかオカシイ!」って人もあったり、そういうのに限って声がでかかったり。

ではオタクとは何だ?

推しの有無とオタクか否かは別の次元だと思っている。
好きなバンドやメンバーを”推し”と言ってきたが、去年くらいから「なんか違う」と思えてきた
特に「好き」程度じゃ済まないように見える、今「推しが尊いてぇてぇ!!!」的に言う人達は。
なので推しが誰かと問われると戸惑うようになってきたし、寧ろ「推しを決めないとダメなのか」と言う気持ちである。

で、「ユリイカ」2020年9月号、「女オタクの現在--推しとわたし」を読んだ。

推しとかオタクとかって個人差があるなぁ、と。
掲載されている文章は評論だけど、自分語りでもある。
こういう生い立ち、こういう遍歴を辿って、どんなオタクになったか、誰を推しているか。
それを踏まえて、評論。
なので「貴方の界隈はそうなんですね」とまず思った。
評論する土台がまず全然違うんじゃなかろうか。なので中中に無理がある、難しいものなんでは。
ただ、どの方も”推し”という言葉には「わたしはこんなに好き!こんなに素晴らしい!」という主張が篭っているような気がした。
とするとオタクとは「語れるかどうか」なのかも。
それは知識・経験でも良いし、「如何に好きか」という気持ちでも良い。
水上文の文章に「女は『私』を生きる」とあって、それがオタクなんだろなー。
好きなモノ、”推し”と共に”自分”を生きる。
結局“自分語り”になるなら、評論の体を成したやつより、各オタクが自らの来し方行末、推しにまつわるエトセトラ語る方が興味深く読める。

そんな中でちゃんもも◎の「女オタクが衣装を着て創り出したアンサー」が面白かった。
”オタク””誰かの推し”の両方の当事者。

バンド界隈はどーなんだろ。凄く雑な言い方するが。
こういう感じのオタクもいるし、違うオタクもいる。
ライトな人もコアな人も。
外見や作品以外(プライベートとか)の話に触れると「アイドル視」「キモイ」と言われがちだが、そればっかりじゃない人はどうなんだ。
藤谷千明の文章に「外からはこう見えているようだが内はそうじゃない」という違和感にはちょっと共感した。
被害者意識ではないと思う。
西田藍の話をもっと読みたかったし、彼女みたいな感じのオタクについての評論を読みたかった、知りたかった。
高山羽根子語るところの野球オタクみたいな世界になればなぁ。
”女オタク”・・・男も女も無いわ、”オタク”もジャンル、人ごとに違う。干渉し過ぎないようには出来ないもんだろうか。
同じジャンルでも分かり合えないなら、どうしようもないが。
横田祐美子の文章で引用されている中(もとは嶽本野ばら「世界の終わりというなの雑貨店」)に

私は貴方のことを全て理解しているだなんて、少しも思わないし、貴方が私のことを理解してくれているとも、思いません。理解なんて必要、ない。歩み寄り、妥協することも必要、ない。

とあって成程と思った。
だからといって他人殴らなくてもよいような。

ただ、一つ気になった事。
この特集の中で”女オタク=腐”みたいな空気が流れてるのが、ちょっと。
そうじゃない女オタクもいるだろうよ。
そうなると「ユリイカ」の”女オタク”から逸脱する?
ウムウ。なんだかなぁ。
あと定義が雑な人もある。
女性向け二次創作を”やおい”と定義するのは雑な気がする。
うんと遡るとまた違うのかもしれないが。

ところで、汀こるもの、ラブコメ書いてはるんや。