社会学的ラブソング・改

音楽と本とお茶と美味しいものと面白いもので出来ている。あんまりはてブされたくないです・・・。

わたしを離さないで

我我は多くを望み過ぎなのかもしれないな。

「私を離さないで」(カズオ・イシグロ/ハヤカワepi文庫)読んだ。
人生で初めて読んだノーベル文学賞受賞者の小説である。
文章が美しいな。やわらかな画を描いていくような文章。
ノーベル文学賞受賞ニュースの時にえねっちけーに軽くネタバレされちゃったんですけども。
残念だった。
訳者あとがきによると作者的にはネタバレしても構わなかったらしいが、文庫のあらすじレベルまでの認識で読んだ方がいいと思う。
↓以下ネタバレあるよ

この作品は子供達が成長する物語なんだ、と思った。
異性や将来に興味を持つ事もだし、微妙な関係性の中で生きてる事、将来に希望が無い事を知った上で成長する物語。
曖昧な、一言では説明出来ない独特の関係。
キャシー・トミー・ルース以外にも、色々あったんだろうなぁ。
で、そこまでやっといて、結局“男と女”に落ち着くんか、と。そのあり方もふつうの人たちとは少し違う、不器用にも見える形なのだが。
機能としては無くても、”本能”はあるのだな、その気持ちのやり場が行動に繋がっている。
何がどう「わたしを離さないで」なのか?と考えながら読んでいたのだが、物語に登場する音楽の事なんだな。
具体的に作用するのではないのかもしれないが、折々の出来事の合間に現れる、繋ぐ。

提供者に意思を持たせるのも酷なのかもなぁ。
成長したら臓器を提供してしまう、それだったら未来も何も知らないで日々”生きてる”だけの方がマシなように思えた。
意思を持って、作品作りをする事、ヘールシャム外の世界を知る事は提供者に人間としての尊厳を与える事は出来る。
でも結局内臓毟られるんやで、どんなに未来を夢見ても、提供者になってしまえばその先は長くない。
(介護人を経て提供者になるのは、”喪の仕事”的な、提供者→死を受け入れる為のステップなんだろうな)
ならない人生もあるのかもしれないが、読む限りはその人生を選べない、封じられてしまったようだ。
家畜でしかないのかもしれない。
それがよいのかどうかは分からない、ただヘールシャム出身者本人達が幸せだと思える人生であれば。
ヘールシャム以外の人がヘールシャムについて知りたがる、自分が生きたように記憶を上書きしようとするのは、少しでも自分の人生が幸せな、満たされたものにしたかったのかもしれないな。

だとすると切ない。
生まれてきた以上、意思を持たない事は出来ないのだ。